日本一のニートである、phaさんのニートの歩き方を読んだ。(今は年齢的にニートに値しない、という説もある)
phaさんの本はしないことリストや共著のものも含め何冊か読んでいるが、初期に出たこの本はまだ読んだことがなかった。
とりあえず新刊から読んでみよう、というのが僕の読書スタンスだ。
人間は生きていれば必ず悩みが生まれる。けど、それをうまく解消してクリアするある種のゲームのようなものだと僕は思っている。
実用的な部分をこの本から幾つかピックアップしてみた。
「死なない」というただ1つの選択肢
死なない以上に大事なことなんて人生にはない。
以前、ブログにも書いたが、僕は現在死なないことをとりあえずの目標にしている。
今もそんな感じで淡々と日々が進んでいて、たまにやる気が出ると一気に行動して何かしら制作をしたりしている。
僕のように、うつ病になるような人間はおおかたマジメで、「ただ日々死なないだけで良し」というところにはなかなかたどり行けない。僕自身もそうだった。
どうしても、社会に貢献したいとかそういう偉そうなことを考えてしまうのだ。
しかし、本当に大事なことはなんだろう?そう思った時に、毎日顔をあわせる人とのちょっとした交流だったりとか、どうでもいいくだらない話で笑えることだったりすることに気づく。
もちろん、僕だってモテたいとかヤリたいとかそういった欲求は一応まだある。それにやはり金は欲しい。
年齢とともに物欲がだいぶ少なくなってきたとはいえ、固定費を安くしつつ快適にすごすための良い道具は欲しいところだ。
例えば寝袋とか。僕の要求するスペックの登山用品は高いので、出費がかさむがこれは仕方ない。
いざとなれば半分外のような環境で暮らすことも考えているので、出来る限り装備は整えたい。
最低限の生きるための知恵と装備だけは揃えておこうと思う。
異常さを社会に解き放つということ
自然と周りに真っ当なレールから外れた人間がたくさん集まるようになった。ときどき訳のわからない衝動が心の中から湧き上がってきて仕事どころじゃなくなったりする、会社や学校におとなしく通うことができないような人たち。
僕は10代の頃からバンドをずっとやってきたせいもあり、周りにはレールから外れた人間が多かった。
長期間そんな感じだったので、いつのまにかそれが普通になってしまっていた。
バンドマンという人種は一般人から見ればクズで異常なヤツばかりだ。そのぶんステージに上がった時の派手さや作曲能力がスゴかったり、カリスマ性がハンパじゃなかったりする。
1000人超のライブ会場を自分達が口説いた女性だけで満員にしたとかいう話もザラに聞く。そういう話を聞くと最初はビビったけど、何度も聞いているうちにバンドってそういうもんかなあなんてだんだん思い始めていた自分がいた。
僕は途中でバンドを辞めてしまったけど、僕がバンドの世界に入った当時からいまだにずっと続けている人もいて、メジャーにいったり、インディーズでそこそこ売れたり、昔と何も変わらないままずっとやり続けている人もいる。
ブログとバンドは一緒だ
突出した異常さは書き続けていればそのうち同じようなタイプの人に届く。
僕の周りでバンドをやっている人間は、自分の異常さみたいなものを音楽やステージで表現している人が多かった。
特にパンクやハードコアといったジャンルのバンドのシーンはそういった雰囲気に満ちていた。僕もそういう感じだったと思う。
自分のヤバい部分に共感してくれるファンと、異常さを共有するというのはなんともいえず快感だった。
ネットに自分のよくわからない変な気持ち悪い部分を晒そう。それはどっかで誰かにつながったりするから。
いわゆる世間でいう変態と呼ばれる人種は、表現力さえあればいくらでも英雄になれると僕は思っている。
これまで、「10人いたら1人くらいがわかってくれればいい」と思ってこのブログを書いてきたけど、自分の生い立ちを考えてみると、書いているうちにもっと気持ち悪い異常な部分というのがでてきて、それは多分100人に1人くらいにしか響かないんじゃないかと思っている。
ただ、ヒットする確率が下がるからダメというわけでは決してない。より濃く伝えられるからだ。僕の中身を知ってダメならそれで仕方がない。
そんな風にして、僕はブログをバンド感覚で書いているフシがある。正直やっていることはあんまり変わらないんじゃないかなあと思う。
自分よりも小さいもの、弱い存在がいると和む
人の集まる場所に猫や小さい子共がいると、共通の話題になってコミュニケーションが生まれたり、人の間の緩衝材になって場の雰囲気が和んだりするというのがあると思う。
僕は30歳を過ぎたあたりから、本能的なのかそうでないのかはわからないけど、段々と子供とふれあうのが苦にならなくなってきた。
自分の精神が未熟な状態の時は「自分を見て欲しい」というヘンな自己顕示欲みたいなものが邪魔して、子供を好意的に見ることができなかった。
男に関してはかねがね20代後半くらいまでこんな感じなんじゃなかろうか。
父性が出現するのは、割と余生が少なくなってからだと思う。大体折り返し地点から意識をするようになる。
また、自分のプライドみたいなものが捨てきれていないまま大人になると、どうしても子供に対してキツく当たってしまったり、依存しがちな人が多い。
そういった人はDVに走ってしまったり、逆に育児放置してしまったりするのだろう。
嫌なことから逃げて動物になれ
自分の中の「これは何かおかしい」「これは嫌だ」って感覚や直感を押し殺してはいけない。悪い場所からは早めに逃げよう。
感覚って案外大事なもので、僕の場合は、うまく説明できないけどちょっとムリだなあって時はその場から離脱するようにしている。
現代では動物的な勘ってバカにされがちだけど、人間に元々備わっている自己防衛の機能はまだ死んでないと思う。
よく、漫画とかで「動物の動きをマネして闘う」みたいな描写があるけど、僕はもっと動物的になりたいと思って狩猟免許を取得した。
動物と対峙することで自己防衛力が強くなりそうな気がしたからだ。
そのせいで人間社会と多少疎遠になっても仕方がないなあとも思って諦めている。
でも、いざ動物的になったらそれはそれで重宝されそうな気もする。何か役に立てれば最高だ。
人間の振れ幅を見ることでうつ病から開放された
日本よりも発展していない東南アジアとかに行くと、人間の生き方なんてもっと適当でよかったんだ、と気づく。道端で昼間から働かないおっさんがいっぱいたむろしているし
僕がはじめてうつ病になった時、最後の旅行のつもりで行った台湾の台北や高雄の街でこういった場面を実際に見た。
それは商店街のような場所で、ビールケースに座ったおっさんが宙をみながらタバコふかしたり、おっさん同士で将棋をしたりしていた。特に働いている様子はない。
その時僕は、「こういうのもありなんだな」と思った。正直それまではそういう大人は想像できなかったし、自分自身もそんなおっさんに対して白い目で見ていることも少なからずあった。
僕は人間の振れ幅を見ることで、うつ病から徐々に開放されていった。
もし自分が今後またうつ病になったら、借金をしてでも台湾やタイやベトナムに行き、ぼけーっとしながらひなたぼっこをして昼間からビールでも飲もうと思っている。
南国の日差しは最高で、心と身体を開放的にしてくれる。ブラック起業は1年に一度くらいそういう行事の義務でも作ればいいと思う。
社会は1つの生き物だ
人間の社会全体は一つの生き物のようなもので、それぞれの個人が働いたり働かなかったり子供を産んだり食料を作ったりするのは、一つの体のそれぞれの器官が働いているようなものだということだ。そのうち一部分だけを切り捨てることなんてできない。
ニートにとっても、働いている人は自分と無関係ではない。それは自分と共通する何かを持った人たちで、一枚のコインの両面みたいなものだ。
これは、自ら集団でバランスを取ってそうなっているという説。
このあたりは本当に考えていない人が多いなあという印象をうける。
しかし、これは先天的に他社とのコミュニケーションができなかったり、うつ病になったりしなければなかなか考えが至らない部分かもしれない。
病気にならない人には病気の辛さはわからないし、問題解決の仕方もわかりようがない。
たまにイライラしたりもしたけど、僕だってガンの痛みがわかるか?といわれればわからない。実際にそうなってみないと絶対にわからないだろう。
痛みがなければ、その原因や全体を把握しようなどと考えもしない。
老後も決して困ることはない
僕の世代が老人になっている頃って、僕と同じような貧乏な老人が僕以外にもいっぱいいるんじゃないかと思う。そういう人が社会にいっぱいいれば、そういう世代同士で助け合ったりとか、もしくは社会にそういうお金のない老人向けのインフラがいろいろ生まれたりして、まあなんとかならないだろうか。
自分は「歳を取った時にいかにして死なないか」という点で考えたときにこの答えにたどり着いた。
親世代からは将来どうするの?みたいなことをよくいわれてきたけど、結局は年長者になったときに大多数に入っていれば勝ちだ。
なにかの拍子で稼ぐことができればそれでいいし、そうでなくても世代の強みで生きることができる。
人工知能の成長は著しいので、全自動の農業システムを構築できれば贅沢はできないまでも、まあ食べることには困らないと思う。
phaさんの本には現代を生きるのに役に立つことが多く書かれているので参考にできる。
今生きるのが辛いという人は、最低限死なないようにして欲しい。