飽き性ってダメなの?
僕はものすごく飽きっぽい性格です。
学校や職場などでもこの事を散々言われ続け、何がダメなのかという理由に納得出来ないままダメージだけを負っていく日々を過ごしてきました。
僕の『飽きっぽさ』は僕の育った地域では少なくとも煙たがられる存在でした。
僕の飽き性について
まず、僕がどれだけ飽き性か説明しておかなければいけません。
・食べているご飯に飽きる。
・読んでいる本を途中でやめる。
・観ている映画を途中でやめる。
・つまらんと思ったらすぐやめる。
・ついでに仕事も飽きてやめる。
友達とそんな話しになった時、全員から「映画や本は見だしたら全部クリアしないと気がすまない」と言われ総叩きに遭いました。
僕からすると、なんで?って感じです。
つまらないと思う時間を過ごすなんてもったいない。
確かに、「起承転結」のように、導入が長くて最後に面白くなる映画や本もあります。僕が最近観た中では、映画『ディア・ハンター』なんかはまさにそうです。
飽き性の僕にディア・ハンターは若干辛かった
ディア・ハンターという映画は、前半部分に変化が無く、とにかく長くて、途中で眠くなり睡眠を挟みました。
3時間の映画を1時間半に分けてどうにか最後まで観た結果、大変胸に響く映画として感動し、僕の記憶に残りました。
でも、今はそういう作品って内容が良かったとしても流行りません。流行らないと次の作品が出しにくくなるので淘汰されて無くなります。
最初につまらないと感じたものは大体は最後までつまらないんです。今のところ、ほとんどの確率で僕の「つまらないアンテナ」の精度はほぼ狂い無しです。
飽き性の人は飽きたらどんどん変えていい
継続は力なりと昔の偉い人が言いました。それは後世に役に立つ何かしらの結果を残した人の言葉でしょう。
僕はこれを『継続することだけは飽きなかった』と言い換えたい。
ブログを例にとってみればわかりますが、何がしか自分の得意なことを活かして、力を入れて書き続けていればそれなりに上がってくるものです。つまり、ブログという枠組みならば内容に飽きたらどんどん変えていい、ということです。
もっと言うと、枠組みや活動場所も変えていいんじゃないかと思います。
1999年にブログの母体が生まれてから既に17年。もうオールドメディアになりつつあります。
本に代表されるテキスト文化自体はすぐには無くなりませんが、今後長文のテキストを読む習慣のある人がどんどん減っていきます。そうなると、「その人に直接会って聞く」とか「動画で伝える」という方法になるでしょう。
僕は今はブログが楽しいしモチベーションもまだまだあるので文章を書いてますが、僕自身いつ飽きるか自分でも全くわかりません。
内容にどんどん飽きろ。そして枠組みにも飽きろ。ということです。
現代は飽き性=勝ちの社会
次々と新しい情報やサービスが出てくるこの時代、飽きっぽさは必要不可欠。
年齢を追うごとに新しい物に対しての抵抗感は大きくなります。でも僕は飽きっぽいのでどんどん新しい情報を入れることが出来ます。そうすると、新しい情報についての知識が入ります。
何百年続くような老舗旅館だって、本質のサービスは変わらなくてもネットの旅行サイトに掲載されてます。つまり、新しい情報や知識は物事を続ける時に絶対に必要です。
そして、ここで「物事を続ける時に」という矛盾が起こります。それって、飽きてないじゃんと。
この「物事」について細かく説明すると、99%の事には飽きてしまっていいけど、残りの1%は自分が命を持った人間であることに飽きることは避けよう、生命活動を続けよう、ということです。
飽き性のメリットはまだまだあります
先日、ブロガーの宮森はやと氏がこのような記事を書いていました。
そう、ロボットの出現です。将来的に人間のかわりにロボットが働くようになるから、今後は好きなことをやっていかに人を楽しませ感動させるかが重要だとあります。
これは飽きるということについても同じです。今稼働しているプログラムやロボットが「人間と同じように飽きる」という現象を起こせるでしょうか?恐らくまだ無理でしょう。少なくとも僕は聞いたことがありません。
飽き性タイプの人間は常に新しいことが出来る
面白い事や感動的な事柄も、何度も同じ事が続けばいずれ飽きます。でも人間は飽きる→新しいことが出来るというロボットに勝る強みを持っています。
何年かしたらそれすらも取り入れたプログラムやロボットが出現するでしょうが、その時は既に人間が生産性を失っても良い時です。
人間は飽きることが出来るというメリットをもっと活かしたほうが良いです。周りに飽き性の人、飽きっぽい人がいたら情報源なので大切にしましょう。
鬱バンザイ!