オリンピックにスポーツマンシップを求めている人はとっとと死ねばいい

オリンピックとスポーツマンシップ

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僕は昔から与えられたゲームやスポーツに全くといっていいほど興味が持てなかった。

 

なぜかというと、そうした与えられたものは全てルールが決まっているからだ。それがつまらなかったのでいつも自分で遊びや玩具を作っていた。

 

自分で作り出したものは自分でルールを決めることが出来て、どんどん面白く改良していくのが本当に楽しかったのだ。

 

こうした動きは子供だけではなく、例えば起業家であれば一定の法則から穴場を探し出してあらたな事業を作り、従来の形から頭一個抜ければ社会に認められる。

 

だがゲームやスポーツは違う。例え才能のある選手がルールの穴を探して技を磨き活躍しても、賛否両論が巻き起こったりする。

 

高校野球がいい例だ。この動画をご覧いただきたい。

 

ファールで粘りに粘って、バットを振り切ることでルール上問題ないようにしながら出塁率を高めるという技である。

 

だが、大会の途中でルールが変えられてしまった。正確にはルール変更ではなく、彼の所属チームへ「やらないように」という勧告だったようだが、結果は同じことだ。

 

理由は、公正では無いからということらしいのだが、僕はこうしたスポーツマンシップなどというくだらない精神がヘドが出るほど嫌いだ。

 

要するに、勝って生き残れば手段など選ばなくて良いと思っている。

 

生き残るためには手段を選ぶな

上記にあげたようなスポーツマンシップが役に立たない理由を、自然界を例にあげてみよう。

 

北海道に生息する野生のヒグマは、広い山を歩き回ってどんぐりを拾うことをしなくなり、川に遡上してきた鮭や鱒を採るようになった。30年ほど前にカメラマンが餌付けをしたことが北海道のヒグマの食生活を劇的に変化させたのだ。

 

ヒグマ達は一見怠けているようだが、彼らは勝って生き残ればそれでいい。生き残るためには手段など選んではいけない。人間である我々もまた、ヒグマを狩るための手段をいちいち公正に選んでいたら一瞬で命を奪われてしまうだろう。

 

つまり、野生のフィールドではそういったスポーツマンシップなどは屁ほどの役にも立たない。

 

だが、現実社会では相変わらずそんな風にして淡々と進んでいる。よく考えればむごい話にしか見えない。

 

オリンピックとは運動の超人=変態種

オリンピックというのはつまり運動の超人の大会だ。その中には、そういったくだらない無理やり作ったような公正さに嫌気がさしている優秀な選手もいるだろう。

 

だからオリンピックにスポーツマンシップなど求めてはいけない。彼らは運動の超人という変態種なのだから、我々にはそもそも理解できない世界の生き物なのだ。

 

僕はもっとそうした運動の変態達の世界が見たい。だから、くだらないスポーツマンシップを求めている一般人はとっとと死ねばいい。そして優れたアスリートたちはその圧力から開放されて欲しい。

 

僕は、抑圧から解放された変態種がしっかりと活躍する様をこの眼にしっかりと焼き付けたい。

 

そこにはもはや動物的な美しさしか残っていないはずなのだから。